踊るひきこもり

からだとこころについての備忘録

ポリヴェーガル理論のための解剖学①

【解剖学と生理学】

解剖学→ からだの構造(形)を調べる学問

生理学→ からだの機能を調べる学問

お互いに密接に関連していて、解剖学は生理学の前提条件でもある。

 

 

【系統解剖学と局所解剖学】

系統解剖学→ 細胞(体を構成している生命的な最小単位)

              ↓

       組織 (同じような形をした細胞が集まったもの)

              ↓

       器官 (いくつかの組織が集まり、独立した働きを営むもの)

       ex)舌、胃、小腸、肝臓など

              ↓

       (いくつかの器官が集まり、協力して1つの目的を成し遂げる集合)

      ex)消化器系(舌、胃、小腸、肝臓) 目的は食物の消化吸収

 

※ポリヴェーガル理論は神経系 ※神経系の目的は、身体の内外の環境変化を知り、それらを統合し、必要に応じた命令を細胞に出すことで、組織・器官をコントロールして身体の秩序を保つ  ←ここ、大事ですね!

 

局所解剖学→人体のある特定の部位(足、手など)について、そこあるすべての器官の相互関係を観察し記述するもの。手術をする場合などに局所解剖学の知識が必要

 

 

 

 

ポリヴェーガル理論のための解剖学

自律神経の働きについて、従来の理論(交感神経・副交感神経/2つの神経のバランス)からポリヴェーガル理論(背側迷走神経・交感神経・腹側迷走神経/3つの神経が系統発生的に作用しあっている)へと認識が変化していることは以前にお伝えしました。

 

pelangi77.hatenablog.com

 

 

私は、ポリヴェーガル理論関係の読書会に参加することが結構あります。

参加者のほとんどは心理職の方なのですが、そこで常々感じるのが、ポリヴェーガル理論の説明で使われる『解剖学』の単語や説明に引っかかってしまい、そこで混乱してしまう方が何人かいらっしゃるということです。

 

医学系のセラピストやボディワーカーの方達と違い、心理職の方にとって『解剖学・生理学・運動学』は触れる機会も少なく、どうも馴染みにくいようです。

ポリヴェーガル理論の要でもある迷走神経を含む自律神経のことだけを学んでも、身体機能としての神経系のしくみや役割がわからないと、こころもとなく感じることも多いかと思います。

私自身、ポリヴェーガル理論をきちんと理解し把握するために、もう一度解剖学について復習したいと思い、この場で少しずつ神経解剖学についてのまとめを書き記していく予定です。

 

重心移動と体重移動

踊りを習っていると、なんともいえない粋でカッコいい動きを目の当たりにする時があります。それは、本当に一瞬の動きだったりするのですが、その一瞬の動きを自分も会得したくて、一生懸命に練習をしていたようにも思います。「私も、あの動きができたら!」

不思議なのは、同じ振りなのに踊る人によって動きの印象が変わることです。

それは、その人のもつ雰囲気や見た目などからくる印象ではなく、動きそのものの印象として。

結論からいうと、それは、重心移動と体重移動の区別が体に叩き込まれているか否かの違いではないかと思っています。

RehaーBali の3つの効果

 

 

リハビリテーションで学んだ知識・技術とバリ舞踊の型を用いたエクササイズ「RehaーBali」

 

実際に「RehaーBali」をやってみると、(私の経験上)主に3つの効果が期待できると思います。

 

 

①型を辿ることで、体の細部にまで注意や意識が向きやすくなります。続けていくと体の状態だけでなく、自ずと感情や心理的な部分への気づきも多くなります。

 

②バリ舞踊の型は、普段意識しにくい呼吸筋を使う動きが多いです。自然と楽に腹式呼吸ができるようになり、自律神経症状などが落ち着いてきます。

 

③型を通じて自分の体の癖がわかるようになります。普段の生活の何気ない動作から、自分で姿勢を整えることができるようになります。

 

 

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自分軸で生きる

「楽しい」とは、一体どういう状態のことをいうのでしょう。

楽しい時間はあっという間に過ぎる、という言葉があるように、時間が短く感じるような体験のことをいうのでしょうか。

でも、悠久の時を感じるといった、いつもよりゆったりと流れる時間にも、私たちは楽しさに近い感覚をもちえます。

「楽しい」は時間の長さでは推し量れないようです。

 

時間というのは私達人間が作った概念であって、決まり事の1つです。

私達がこの社会で生きていくには、時間という共通の概念にそった生活をしなければ、他の人達との共存が難しくなります。

世の中(世間や他人)という大きな概念の中にあって、私達それぞれが自分軸の時間を生きること、そのことが「楽しい」に繋がるのではないでしょうか?

一人でいても、大勢の中にいても、自分軸の時間を生きること。

 

自分軸の時間とは、自分の意識がきちんと働いている時間のことをいいます。

だから、一見辛く苦しいことのように見える勉強や仕事も、それが自分軸の時間だったら「楽しい」になるでしょうし、自分軸のもっている人間の集まりは、一人では得られないような違う次元の「楽しい」を感じることができるのだと思います。

 

世間軸や他人軸(誰かの押しつけや世間体)の時間だけで生きてしまうと、「楽しい」はどんどん遠ざかってしまいます。

 

動く楽しさとは? 番外編(後)

「動く楽しさとは?」の記事で、動きに注意を向けることが大切だとお伝えしました。

注意という機能は意識(覚醒)状態とも深く関係しています。

 

        これは、注意と意識の相関状態を表したものです。                        

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A 超低覚醒(睡眠) 注意は無反応

B 低覚醒 注意散漫外からの無関係な刺激に反応しやすく、注意が1つにしぼりにくくなります。話も行動も脱線しやすくなり、一貫性がなくなってしまいます)

C 正常覚醒 注意集中

D 過覚醒 意識狭窄1つのことに注意が集中し過ぎて、他のことがわからない状態になります

F 超過覚醒 注意拡散(全ての刺激に対して敏感となり注意がしぼれなくなります)

 

スポーツにしてもお稽古事にしても、人間が物事に真剣に取り組むと、D過覚醒の状態を経験することは避けては通れないように思います。

寝る間も惜しんでとか、3度のご飯を食べるのも忘れて、などがまさにそうです。

しかし、D過覚醒がずっと続くということは、意識狭窄状態が続くということを意味しています。自分のしていることが全てであって、それ以外へのことには興味や関心を持たなくなる、そしてそれが善であり正である、恐らくそんな精神状態になってしまうのではないでしょうか。

 

だからこそ、過度な集中を求められる事をする時は、その指導にあたる人間、もしくは周囲の人達のフォローがないと、精神的に危険なことになってしまうのです。

 

子供の頃の習い事なら、きっと周りの大人達が見守ってくれるでしょう。危険なのは、私のようにいい大人になってから、のめり込んでしまう場合です。あまり1つの事にのめり込むということは、もしかしたらどこか現実から逃げたいという気持が潜んでいるのかもしれません。

 

 大人であるが故に、自分も周囲も分別があると思い込んでいます。意識が狭窄しているなんて思いもしません。ただそれでも、少しずつ現実の社会から自分を遠ざけるような言動を無意識にしていました。そうして、本当に取り返しのつかないところまでいって、ようやく気がつくのです。私の場合は身体が悲鳴をあげました。

 

自分の場合はそうなるまで気がつけなかったという、情けないケースです。

「過ぎたるは及ばざるが如し」 「中庸の徳」   耳に痛いです(^_^;

動く楽しさとは? 番外編(前)

私は、踊りのおかげで動くことの楽しさを知りました。

だけど一方で、自分にとって大切なものごとを見落としてきてしまい、自業自得で仕方のないことなのですが、ずっとそのことで自分自身を責めていました。そして、この自己嫌悪という苦しさがある限り、自分は踊りで何かを人に伝える立場にはないなと思っていました。どうして自分が世間というものからズレてしまったのかがよくわからず、表面上では何事もないような顔をしながら、心の中では必死にもがいていました。

 

昨年からのコロナ禍で、(対面でないと難しいと言われてきた)身体を扱う仕事の世界にも、必然的にオンライン化が試されるようになってきました。普段、私が仕事でお会いできるのは、医療保険や介護保険が適用となる方達です。それ以外で心身の不調を抱える方達に何かしたいと思ったら、自費サービスを提供する所で働くか、独立するしかありません。ところが、現在オンラインという手段が広まることで、私のような1セラピストでも、工夫をすれば自分のやりたい活動ができる環境になってきたのです。むしろ、こういう状況だからこそ、ダメもとでもいいからやりたい事をやってみようというセラピストは増えてきたように思います。

 

私自身も、自己嫌悪の苦しさはまだ完全に払拭していないけど、それなりに臨床を続けてきた自分を信じ、色々と動き始めることにしました。

 

その始めの一歩が、このブログです。

「動く楽しさとは?」は、自分が今までに寄せ集めてきた点と点を線に、線と線を面に、そして面と面を立体にするために書き始めたものです。不確かなところ、曖昧なところは調べ直し、改めて自分の方向というものがハッキリしたようです。

その過程で(棚ぼた的な感じで)なぜ自分が踊ることで苦しさを抱えてしまったのかが、よく理解できるようになったのです。それはそんなに複雑なことではなく、世の中的にはよくある話だと思います。

それでも、私にとってはずっと心の中に漂っていたモヤモヤがようやく消えていく、そんな心境です。