踊るひきこもり

からだとこころについての備忘録

踊りと身体の回路

30歳でインドネシア・バリ島の踊りを習いはじめた。最初は暇つぶしぐらいの軽い気持ちだったのだが結果的に自分の人生を大きく変えるきっかけとなった。その頃私は高校時代からつき合っていた男性と結婚していたのだが、蜜月を過ぎた私達は、互いの内面的問題にそれぞれがそれぞれに向き合わざるをえない時期にきていたように思う。私も相手も自分のことで精一杯で、お互いを思いやる余裕もなく互いに傷つけ合う関係に変わっていった。そういう状況から逃げるように私は踊りに夢中になり、約1年間バリ島に滞在し踊りを習うことにした。帰国後、当然私達は修復不可能となり離婚することになる。

相手の方とは15歳からのつき合いで、その人と一緒にいる間は自分自身の父性欠如には気づけなかったし、また気づく必要もなかった。34歳で離婚してから、いや今になって思えば踊りを始めた頃から自分には何かが決定的に欠けているのではないかという思いに囚われるようになっていった。私は「父親なるものへの渇望」には無意識下でずっと蓋をしていたので、自分の何がどう問題なのかがまったくわからず、ずっと途方にくれることになる。なんとか社会生活は送ってはいたものの、精神は現実世界から距離をおくようになり精神的引きこもり状態が長く続き、今も完全には払拭できていない。最近、あるカウンセラーの先生にいわれたのだが、私が気が狂わずにいたのは踊りをしていたからだそうだ。

深部感覚という関節の角度や空中での身体の位置をセンサーする感覚がある。ゆっくりとした動きの古典舞踊は、まさにこの深部感覚を研ぎ澄ませることを延々と繰り返し行っているようなところがあり、それは自分が「いまここ」に在るということを実感するための回路のようなもの。私の精神は現実から離れていたが身体は現実を感じていたのだろうか。私は踊りに救われていたし、今も救われている。

「苦しみ」に気づかずにいたら、気づいても気づかぬふりをしていたらもしかしたらもっと楽に生きてこれたのかもしれない。「苦しみ」に真っ正直に向き合ってしまったがために私は大切なものたくさん失ってしまった。我ながらバカだなぁとため息がでるが私には必要なことだったし、そういう生き方が私そのものなのだろう。